鏡に映る姿は自分のようで自分ではない。あれは別次元の人なのだ。本来の自分はミラー像ではない。本来の自分は右の頬を触れば見える象は向かって左の頬を触っていなければ為らないのである。
本来の姿を見ようと洗面所の三面鏡を動かしながら実像を見ようとした。第三者から見える自分を観てみようと思ったからだ。
三面鏡を駆使して実像を見ようとすると、いつも見るミラーとは違う自分が出てくる。ふーん、他人からこのように観られているのかと思ったモノだ。
その実像はいくら目線を合わそうとしても目が合わない。ミラー像はどっからでも目線はバッチリ合うのだが不思議な物だ。ギリギリの角度で試すと片半分の顔だけ僅かに目線が合うが顔全体は見えない。
やはりどのように自分が映っているのかを見るのは写真かビデオしかないのであろう。
一日一回、ひげ剃りの時に鏡を見るが、もうミラーの自分は見飽きた。実像を見たい所だが、やはりどうやっても鏡では実像は見えない。自分の本質は自分では見えないのだ。
本質を見るには「悟りを開く」しかないのであろか。
自分を見るには滝に打たれるような修行をして仙人になるか、仏門に入って悟りを開くかしかないのであろう。
と言ってもそんな修行はわたすには向いていない。
そこにいるのは鍛える事すらやらない、ぐーたらな自分がいるがそれが実像なのであろう。