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「ア、秋」

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 秋になると、蜻蛉とんぼも、ひ弱く、肉体は死んで、精神だけが
ふらふら飛んでいる様子を指して言っている言葉らしい。
蜻蛉のからだが、秋の日ざしに、透きとおって見える。
 秋ハ夏ノ焼ケ残リサ。と書いてある。焦土である。
 夏ハ、シャンデリヤ。秋ハ、燈籠。とも書いてある。
 コスモス、無残。と書いてある。
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↑これは太宰治のエッセー “ア、秋” の一説である。
秋に関しての太宰のノートに記したメモなのだ。
 
井上陽水の“少年時代”の詩に
「夏が過ぎ 風あざみ 誰のあこがれにさまよう
青空に残された私の心は夏模様
夢が覚め夜の中 永い冬が窓を閉じて呼びかけたままで
夢はつまり 想い出のあとさき
夏まつり宵かがり 胸のたかなりにあわせて
八月は夢花火 私の心は夏模様
目が覚めて夢のあと 
長い影が夜にのびて星屑の空へ
夢はつまり 想い出のあとさき・・・」  
と続く。
 
井上陽水の詩と太宰治の共通点というか感性の類似性を見い出した思いが
する。
 
また太宰の「ア、秋」の 文章は
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「いつか郊外のおそばやで、ざるそば待っている間に、食卓の上の古いグラフを
開いて見て、そのなかに大震災の写真があった。
一面の焼野原、市松の浴衣ゆかた着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。
私は、胸が焼き焦げるほどに
そのみじめな女を恋した。おそろしい情慾をさえ感じました。
悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。息がとまるほどに、苦しかった。
枯野のコスモスに行き逢うと、私は、それと同じ痛苦を感じます。秋の朝顔も、
コスモスと同じくらいに私を瞬時窒息させます」。
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と続く
  
3年前の大震災の翌日、朝日の朝刊に半袖で太股も露わな震災にあった若い
女性が出ていた写真を見て太宰と同じ思いを感じた。
 
井上陽水が太宰の「ア、秋」 を読んだのかどうかは知らないが二人の
よく似た感性を感じる。
今日、太宰の「走れメロス」と「駆け込み訴え」を無料配信で読み返し
そのあと「ア、秋」を読んだ時に思った事だ。