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バチカンも高野山も

 とかく宗教、寺院は洋の東西を問わず「権力争い、金まみれ、スキャンダルまみれ」だ。同性愛など教義で全否定してきたカトリック総本山のバチカンに至っては枢機卿らの男色や修行生らにセクハラの件もあり権威も地に落ちたところだろう。
 枢機卿らは殆ど男色らしい。男ばかりの世界ではよくある話しではある(キモい)
 そろそろ、同性愛も認め、コンドームも認めるかも知れない。だって本人達がそうだもの。ベネディクト16世がサジを投げ、逃げ出したのも良く解る。
 
 何億も損失を出した高野山の住職も「オマエ、宗教か」といえる。財テクしか頭に無い坊主だ。
 昔から宗教団体の権力争いや金銭争いは何処にでもある。当然である・・・彼ら宗教は企業と同じ営利団体だモノ。
 バカ高いお布施、寺費や葬儀代など庶民の感覚とズレまくっている。宗教自体、世間の感覚と違ってきた。
 
「葬儀の為の宗教なのか?」とは昔から言われているが、本来の宗教とは違っている・・・。
 瀬戸内寂聴などがやる法話や傷心の声を聞いてあげる事により救われる人もいるかも知れない。もし身近の坊主が親身に「心の声」を聞いてくれる処があれば瀬戸内氏の法話にあれほど人が集まらないかも知れない。
 
 わたすが幼稚園に入る少し前、祖母が楽しみにしていた法話を聞きに寺に行く際、何故か私が「お別れ」と感じて泣きながら「行くな」と手で引き留めた事があった。その光景を見た母が私を羽交い締めして祖母が歩いて見えない所まで行ったことを確認してから手を放した。
 それから私は泣きながら祖母の後を走って追いかけた事があった。そして祖母をつかまえ戻って来たことがある。祖母はあきらめ顔で怒りもしなかった。
 何ヶ月かに一回の祖母の楽しみを奪ってしまったのである。子供の頃のかすかな記憶である。
 
 今年、母の7回忌と父の13回忌をやるが、法事もかなり費用が掛かる。わたすの場合、殆ど交通費なのだが・・・。寺へ行って供養のお経を読んで貰って、その後、墓地まで車で移動し、またそこでお経を読んで貰い、親戚たちと会食となる。
 
 まあ、故人を思い出して懐かしむ事は悪いことでは無いし、親戚らとも久し振りに会うのも悪くはない。
 
 田舎の墓の手入れや、水やり、花さしなど一切、弟嫁に任しているのでエラソーな事は言えないのであるが・・・。
 ボチボチ寺や墓や空き家の事も考えねばならない。昔は樹木葬や散骨など頭に無く、父も当然の如く墓を買ったのだが・・・。
 どの家庭も後々、墓の面倒を見る人間がいなくなると永代供養の集合墓地に入れたりするそうだ。その費用も馬鹿にならぬのだが。
 しかし私はあのような集合アパートの様なところには入るのはまっぴらゴメンだなー。
 後々の事を考えると散骨も大いに考えられると思う。前に書いたが、本当に自分で自分の骨を散骨出来たらEーのになあ〜と思う。どう考えてもこの始末は自分では出来ないのである・・・。