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「赤とんぼ」の解釈

「夕焼け小焼けの赤とんぼ」の歌詞については諸説があるが
 
♪夕焼け小焼けの赤とんぼ おわれてみたのはいつの日か
山の畑の桑の実を 小かごに摘んだはまぼろし
十五で姐(ねえ)やは嫁にいき お里の便りも絶えはてた
夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよ竿の先♪
 
3番めの「十五で姐やは嫁にいき お里の便りも絶えはてた」
此処の所の詩歌だがこの部分だけ小学生唱歌には載っていない。
 
中高生の頃、わたすはこの詩の意味を色々考え想いを巡らせた。
 
十五で姉さんは嫁に出された。口減らしの為であったのは解る。異論はない。
問題は「お里の便りも絶えはてた」と続く解釈だ。
何で便りが絶え果てたのだろうかと深く興味を持ち考えたのだ。
 
15歳で嫁に行った先は女郎部屋を営む旅館だったのだ。
奉公に行ってから暫く便りが届いていたが急に便りが無くなったと言う事は
最初は掃除や下働きばかりやらされていたが数年後、娼婦として店に
出る事になって実情が分かったのである。
自分は娼婦として売られて来たことを・・・
 
そして性を売る仕事に付いた事情を知った娘は自分から里への便りを
断ったのである。それが自然な解釈だ。
こうでなければ涙を誘わない。
 
諸説とは違うが三木露風はそういう風にを歌っていると思われる。
有りのままを書いても詩にならない。
詞というのは「思い」や「想い」を膨らさねばならない。
感動させねばならない。
現代の解釈は間違っている。
歌に論理的な解説や科学的な解説をする今の説は愚かしいかぎりである。