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父の想いでぽろぽろ

父は中学の英語と国語の教師をしていた。
一学年1クラスのような小さい学校は2科目専門を持っている教師が
重宝され、結構希望した学校に赴任出来たようだ。
 
田舎でも町の中心的な位置に立つ学校と畑や田んぼが続く田舎の学校がある。
父は教師生活後半は好んでのんびりしていて素朴な田舎の学校を
希望していたようだ。
と言っても自宅から通える場所だったが。
 
受け持つクラブは女子バレー部だった。なんの専門知識も無いのに・・。
すべて自己流で私への野球指導も自己流でお話しにならなかった。
よくクラブの生徒たちに愛想を尽かされ無かったと思う。
 
夏休みのある日、他の地域の学校へ対外試合に行った帰り、
選手達を連れて甘味処に入ったそうだ。その時に全員にかき氷を
ご馳走しようとしたが手持ちのお金が足りず饅頭とお茶にしたようだ。
「なんと可哀想な選手達」真夏にお茶と饅頭かよ?と思ったものだ。
 
その事を聞いたわたすは高校生だったか中学生だったか忘れたが
「そんな時は店主に相談して後から残り分を持ってくるからと言って
“かき氷”を食べさせてやれば良かったのに」と話した。
「うーん、そうすれば良かったか?」と言っていた。
機転がそこそこ利く人だったが他人から金を借りる等した事が
無かったので、そういう発想が出来なかったのだろう。
  
当時は中学教師はある意味、中々大変な職業だった。
卒業前には生徒の就職や進学の面倒を見なければいけない。
中間テストも期末テストも自分で作ってガリ版で刷る。
今では業者が作るプリントだろうが・・・。
その後、採点だ。その頃は赤ペンでやっていた。
赤インクのボトルと鉄ペンが記憶に残っている。
まだサインペンなど出ていなかった。
 
その作業、どれを取ってもに父にはしんどい作業だったのであろう。
よく母親も採点を手伝っていた。
わたすも平均点を出す時にそろばんで手伝った事がある。
「ねがいましては75点なり65点なり44点なり・・・では」となり
合計点を人数で割って平均点を出すのである。
どの作業も父には苦手な作業だったのであろう。
 
父は算数的な仕事は不得手だった事は理解出来た。
わたすだってサインコサインはとてもじゃ無いが付いていけなかった。
ゆっくりやれば少し理解出来たが理解したと思ったら既に授業は
先のページに行ってしまっていた。
地頭が悪いのだろうか? 悪いであろう事は間違い無いのであるが・・・。